上村松園展

京都国立近代美術館上村松園展が始まりました。
過去最大級の回顧展ということで、世に広く知られた傑作を、一度に見ることのできる機会です。
私は東京で一足早く鑑賞してまいりました。
uemura.jpg


「女の、これはしもと難つくまじきはかたくもあるかな(非の打ち所のない女はそうはいない)」
(『源氏物語』・帚木)という名言(?)は千年前も現代も変わらず通用しそうですが、
松園の描いた女性たちからは非の打ち所のない「カンペキ」な感じを受けます。
社会に出て活躍する女性の存在が稀だった時代、
次々に傑作を生み出す彼女を妬む者も多かったようで、
出品作『遊女亀遊』の顔が落書きされるという事件もあったそうです。
「落書き」というきわめて幼稚な攻撃方法をとってしまった犯人は、
「カンペキ」な彼女の存在をどうにかして崩してみたかったのかもしれません。
晩年の、安定した境地に至ってからの作品も言うまでもなくすばらしいのですが、
個人的には大正期の、時代の風に少し乱されたような、
より積極的に女の内なる情念に迫った作品群に惹かれます。
浸っていた恋の思い出(朝顔の扇子)を人の気配を感じてとっさに隠す深雪(大正3年『娘深雪』)。
募る思いを故事になぞらえ狂い舞う照日の前(大正4年『花がたみ』)。
光源氏の正妻に嫉妬するあまり生霊となってしまった六条御息所(大正7年『焔』)。
妬まれようが批判に晒されようが世間に媚びなかった「鋼鉄の女性画家」が描く、
自制の効かなくなってしまった女性たち。
何をしても鎮めることのできない、この狂おしさ。
女性であれば、誰もが理解できるのではないでしょうか。
上品さを決して失うことのない松園の筆ではありますが、『焔』を描いた頃は
「どうしてこのような壮艶な絵をかいたか私自身でもあとで不思議におもったくらいです」(上村松園『青眉抄』)
と語るように描いた本人も自分で自分を制御できない時期だったようです。
「その面影も恥ずかしや」(謡曲「葵上」)と、思わず隠したくなるような、
できることなら直視したくない、女の「どうしようもない」部分を、
松園が無視することなくしっかりと描いて残してくれたことに、
なんだか妙に安堵してしまうのは私だけでしょうか。
「女ばかり、身をもてなす様も所狭う、あはれなるべき者なし
(女は狭いところで生きなければならない、かなしい存在である)」(『源氏物語』・夕霧)
という常識を「過去のもの」としてくれた松園。
十代から七十代までの作品を順にみれば、
涼しい顔をした美人たちの裏に画家の心の揺らぎや迷いも少し、
見え隠れするようです。
作品だけでなく、様々な苦難を抱えながらも自分の生き方を曲げることのなかった
松園の美しい生き方にも魅了される展示でした。
(山田)